⇒For English version, click here please!

 

丘に登る道は、家のすぐ裏から続いていた。途中までは羊やヤギを連れた子供達が上っていくので踏み固められて広い道になっている。丘の中腹は家畜に草を与えるのに適した牧草地となっていた。各家庭では若い子供達がその役目を担っている。子どものいない家は、近所の子どもに家畜を預けて連れて行ってもらう。お礼に駄賃をあげたり、畑で取れた野菜や果物をあげたりしていた。

途中から道は二手に分かれた。左へ行けば牧草地で、右へ行けば見晴らしのいい頂上にまで登ることができた。天気がいい日はナザレの町の全景と、はるか向こうにある大海へと続く西の地平線を望むことができたし、北のほうにはヘルモン山やレバノン山脈を眺めることができた。運がよければ、ガリラヤ湖が太陽に反射する光をわずかに捉えることもできる。南の地平線にはカルメル山が、美女のうなじを思わせる斜面をみせてそびえている。安息日には行くことができないが、丘の反対側の斜面からはヨルダン川の流れや広々と続く低地平原を望むことができる。ナザレは景勝の地だ。

ルークは初めての丘をわくわくしながら登って行った。名前の分からない小さな紫色の花が丘の斜面に群れて咲いている。二又を右に折れて頂上を目指した。ナザレの町を見渡すことができる中腹の場所が気に入った。ところどころに岩場があり、腰を降ろしてぼんやりと景色を眺めることができる。風が気持ちよかった。

岩が日陰を作っているくぼみに身を潜めてみた。隠れ家のようだ。しばらくじっとしていた。以前にもここに来たことがあるような不思議な気がした。今度は猫のテオフィロも連れてこようと思った。猫に親友の名前をつけてしまった。

岩場のくぼみをもっと探してみようと思ったルークはギクッとして立ち止まった。何かいる。目の前のくぼみの黒い影の中で何かが息をしているように思えた。用心しながらじっと見つめるルークの目に、人の顔が浮かんできた。たしかにまばたきをしている。ふいにそれは立ち上がった。

目の前に現れたのは人間だった。岩とよく似た色の服を着ていて、頭もすっぽりと覆っていたので、ルークの目が捕えることができたのは、わずかに見えた顔と胸の息遣いだけだったのだ。

その人は声を出した。
「やあ、君はルークだね。ようこそ、この丘へ」
びっくりしたルークは声が出なかった。

「あれっ、驚いた? ごめんごめん。脅かすつもりじゃなかったんだけど」と、頭の覆いを取りながら、その人は謝った。ルークと同じくらいの年頃の少年だった。風が少年の長い髪を揺らしていた。
「君もこの岩場が気に入ったらしいね。ここは僕のお気に入りの場所のひとつなんだ。ここで昔の勇士たちや信仰の人たちのことを考えるのさ。ダビデが逃亡中に隠れた岩場なんかを想像してね。モーセが水を出した岩もあっちにあるよ。あの岩はシナイ山に見えないかい?」

驚いたルークはもう一つ不思議なことに気づいた。この少年の言葉は細かいところまで分かるのだ。しかし、それは不思議でも何でもなかった。少年はギリシャ語を話していたのだ。

「君はギリシャ語が話せるんだね」とルークはやっと口を開いた。
「うん、父さんに教わったんだ。人間のほうのね。父さんは大工なんだけど、腕がいいからいろんな町からも呼ばれて手伝いに行くんだよ。僕も手伝いにいくよ。このあたりでもギリシャ語を話す人が増えてきているからね。自然に覚えたのさ」

ルークは気がかりなことを尋ねた。
「もしかして君が『歌うたい』かい?」
「はっはっはっは」
少年は大声で笑うと、岩の上にたちあがり、大きく息を吸い込むと、始めは静かに歌い始めた。ヘブライ語の歌だ。
少年の歌声はしだいに大きくなり、丘の上にこだました。

 

 

「いい歌だろ。僕が作った。エルサレムにあるお父さんの家のことを思ってね」

「エルサレムにもお父さんの作った家があるの?」
とルークは尋ねた。

「はっはっはっは」
少年はまた、大笑いをした。涙を浮かべながら笑い終わると言った。

「そうだよ。お父さんの家さ。君も今度の祭りの時に一緒に行こうよ。楽しい旅になるよ。母さんが言ってたけど、君の母さんとは子どもの時に大の仲良しだったんだってさ。祭りにもいつも一緒に行ってたらしいよ。今度は秋の「仮小屋の祭り」だよ。光の祭りさ。エルサレムに大きな明かりが灯されるんだ。夜になると、それはそれは美しいよ。お父さんの家が昼間のように明るく照らされるんだ……」

少年は空を見上げ、満足そうな表情を浮かべて目を閉じ、そのまま動かなくなった。息づかいだけが胸を上下させていた。

ルークはわけが分からなかったが、自分も真似をして立ち上がり、目を閉じてみた。暑い陽射しが感じられた。夏草の香りがした。さわやかな風を肌に感じた。そっと目を開けると、母さんの町が目の前に広がっていた。町の周りに広がる畑も一望にできた。母さんの国にいるんだ。なぜだか涙が流れた。

ルークは「歌うたい」の少年の言葉と歌に耳を傾けた。岩フクロウのいる巣の在りかも教わった。フクロウの愛嬌のある大きな眼がくるくると動いていた。

岩シャコの鳴く声が聞こえたが姿は見つけられなかった。

チュッ、チュッ、チュカー、チャコー、チャコー、チャコー!

少年によると、岩シャコは、鳩を少し大きくしたよう鳥で、口ばしと目の回りのオレンジ色が目立つ、とても綺麗な鳥だという。

少年が時々止まるのは、心の中で神に語りかけているからだということをルークも理解した。

「あっ、母さんを手伝わなくちゃ」と急いで丘を降りていく少年の姿を見送りながら、ルークは少年の名前を聞くことを忘れていたことに気づいた。

ルークの本当の旅はこうして、この丘の上で始まった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です