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子どもの頃、貧しくて、母一人子一人の暮らしでした。小学校の1年の時かな、同級生たちが鉛筆をプレゼントしてくれたことがあったっけ。貧しくて買えなかったのか、忘れん坊のボクが、よく鉛筆を持っていかなかっただけなのか覚えていないけど、たぶん先生が気を利かして、「お父さんがいないのよ」とか話したのだと思う。

小学校2年の時、母は再婚するのだけれど、新しい父はボクの理解を超えていた。父にとってもボクは理解を超えた存在だったのだと思う。残念ながら、心が通い合うことは無かった。

貧しさはそれからもしばらく続いた。小さなアパートの一部屋。押し入れの上の段を、ボクの部屋としてもらった。うれしかった。でも、夜寝る時は、暗闇が恐くて、ふすまをぴっちりと閉じることができなかった。夜になると、自分でも理由が分からないのだけれど、涙が出てきて止まらなかった。たぶんボクの夢見がちな性格は、この時に培われたのだと思う。

「欲しいかい?」と聞かれると、「どっちでも」と答える子供だった。「欲しい」と一直線に言えなかった。誰かに甘えるということができなかった。たぶん、拒絶されることが何より怖かったのだと思う。今でもたとえば子供がお父さんにじゃれついているような場面を見ると、「いいな~」と見惚れてしまうのだから、子どもの頃の感情は一生抱えていくのかもしれないね。

そんなだから、聖書を学んで、「天の父」の存在を知るようになっても、すぐに甘えるということができない。そもそも父にどうやって接したらいいのか分からないのだ。憧れだけはある。いいなーと思う。でも、例えば、イエス・キリストに子どもたちがわーっと駆け寄る傍らで、じっと見ているような子供なのだ。イエスは、でもボクのことに気付いていて、目が合ったときに、そっとウィンクしてくれる。ボクは内心、嬉しくて嬉しくてたまらないのだけれど、はにかみながら下を向いてしまう。

まあ、父エホバと、み子イエスと、ボクとの関係は、今のところそのような段階なのかもしれない。「信仰」という言葉は大仰すぎて、本当は、ボクにはなじまない。ボクのはまだまだ「おままごと」のような信仰にすぎないと、よく思う。

ただね。エホバのためなら、イエスのためなら、死ねるよ。これは本当だ。

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