トロアスを出航した船はまず、海路を南下しミレトスへと進んだ。ユーラクロン(暴風)の季節の船旅は本当に危険だが、六月半ばの今日の海は穏やかだ。船は陸地が見える距離を保って進んでいる。大小の島々の間を縫うようにすすむ海路だ。ルークは子どもらしく無邪気に船の旅を楽しんでいた。
船旅は初めてではない。亡くなった父のアレックスとは、エーゲ海を隔てた向こうの国ギリシャのアテネやコリントにまで旅行したことがあった。ギリシャには父の友人が何人も住んでいた。アテネで見たギリシャの神々のための壮麗な神殿には心を奪われた。群青の海を一望にする丘の上に立つ、大理石の大きな白い柱が印象的だった。今でこそ世界の中心の立場をイタリヤのローマに奪われてはいるが、「知の都」ギリシャの誇りをアテネは十分に保っていた。哲学好きな人々が神殿に程近いアレオパゴスの丘に集まり朝から晩まで議論をしていた。
商業の町コリントは別の意味で活気に満たされていた。スポーツと娯楽が人々の関心事のほとんどを占めている。人々は快楽を求めてこの眠らぬ町の街路にあふれていた。ルークの父アレックスはこの町の歓楽には興味を示さなかったが、若いころから熱中しているマラソン競技が行われるイストミア競技会の見物に訪れた。かつてアレックスも若き走者として走ったのだった。松の葉で作られた勝者のための質素な冠を得るために、懸命に走る選手の姿にルークも感動した。以来、父と共に走ることを朝の日課としてきた。
母のダイナは、船室から姿を消していたルークを探して甲板に出た。トルコブルーの海に浮かぶ白い島並みが美しい。頬をなでる涼風が帆をいっぱいに膨らませている。船は波を切って一路南へと進んでいた。十羽ほどのカモメがずっと船を追いかけて飛んでいる。
ルークは船の舳先で一心に進路の先を見つめていた。初めの船酔いも収まり元気を取り戻していた。
「一緒に来てくれてありがとう、ルーク」
「母さんと離れるなんて考えられないよ」
二人は作りつけられたベンチに座り、ゆっくりと互いの顔を見ながら会話をした。ダイナはローマ式の衣服に身を包んでいる。明るい黄色の色彩が母には良く似合うとルークは思った。編みあげていない長い髪が風に吹かれている。
「友だちと分かれるのは悲しかったでしょう?」
「うん。でも、テオフィロとはお互いに手紙をいっぱい書くって約束したし、おじいちゃんと約束した通り、三年経ったら帰ってきて、また学校で勉強を続けるから大丈夫だよ」
「三年…三年たったら…お別れなのね」
「大丈夫だよ。医者になったら、母さんを迎えにいくよ。それに母さんの国でも医者は必要でしょ?」
「そうね。…でもあなたの成長を近くでずっと見ていたいわ」
「僕だって母さんのそばにいたいけど…父さんのような立派な医者にもなりたいんだ」
ルークの笑顔は夫のものとよく似ているとダイナは思う。髪の色は母の自分に似て黒いが、顔かたちと明るい眼の色はギリシャ人の血を引いていた。イスラエルの地で皆に受け入れられれば良いのだが…。
船の旅の間中、ダイナはふるさとの言葉ヘブライ語をルークに教えた。覚えの良いルークはすぐに簡単な会話なら出来るようになった。トロアスで手に入れたヘブライ語の巻物「詩篇」を共に読んだ。奇妙な形の文字を解読することは、ルークにとってパズルを解く遊びのように思えた。ルークがすぐに覚えた文字は「エホバ」、ダイナの国の神の名前だった。
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