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《母さん、今日は元気かな》

少年は、母の待つ二階の広間の扉を開いた。
「ただいま」

大理石の床にはゆったりしたソファー並べられている。いくつもの陶器のランプの上で、亜麻の灯心の小さなともし火が揺れていた。

「母さん」
返事はない。

三階にある両親の部屋に上ろうと、階段の手すりに手をかけた時だった。階上から母の声が聞こえてきた。何かを歌っている。いつものギリシャ語の歌ではない。聞きなれない不思議な調べの曲だ。

《母さんの国の歌だ》と少年は直感した。

それはヘブライ語の歌だった。母が育ったふるさとの小さな町の会堂で、『安息日』によく歌われた歌だった。神を賛美する歌だった。

三階へと階段を上りながら少年は母の歌声に耳を澄ました。小さな声はしだいにしっかりとした歌声に変わっていった。せき止めていた水がいっきに流れ出すように、歌は母の口からあふれ出ていた。三階の部屋のドアをそっと開けると、薄暗い部屋の窓辺に立つ母の姿が見えた。夕方のわずかな光が美しい母の横顔を照らしている。エーゲ海からの風が、きれいに編み上げられた長い黒髪を揺らしていた。美しい歌声は長く続いた。

少年の名前はルーク。十二歳だ。ギリシャ人の父とユダヤ人の母の間に生まれた。父と母は国籍を超えた恋愛の末に結ばれた。父のアレックスとその家族は、若く美しい新妻をよろこんで迎えた。医者を多く生み出している家系の家族はトロアスでも十指に入る豊かな家だった。一方、新妻のダイナは貧しいユダヤ職人の娘だ。ダイナの両親は、娘が祖国と自分たちの神を忘れて異国の男の妻になることがどうしても許せなかった。トロアスでどうにか軌道に乗ってきた鍛冶屋と金属細工の仕事をきっぱりとやめて、娘を勘当し、祖国に帰ってしまったのだ。

ダイナは深い悲しみに沈んだが、やがて生来の明るい気質を取り戻し、ギリシャ風の暮らしになじむように努力した。ダイナは誰にでも好かれる快活な女性だった。子どものときからトロアスで育ったので、ギリシャ語は普通に話すことができた。医者であるギリシャ人の夫と結ばれた後は、故郷の言葉であるヘブライ語を「忘れよう」と決意した。

やがて息子のルークが生まれ、ダイナは人の良い夫とその家族と共に不自由のない豊かな暮らしを楽しんだ。ルークが医者になることが皆の願いだった。しかし、人生の試練は再びダイナを脅かした。夫がはやり病で死んでしまったのだ。ダイナは人が変わったように無口になり、人と会うことを避けるようになってしまった。ルークにとっても父の死は、現実のこととは思えなかった。大きな石が胸の中に入れられたような、重い痛みが消えない日々が続いた。

父のアレックスは博学で、知的な人だった。ギリシャの人間臭い神々を信じてはいなかった。
「あれは作り話だよ。本当の神は違うところにいる。もしかしたら母さんの神が本当の神かも知れないな」
『母さんの神』ってどんな神様なのだろうと、ルークは思った。

夕暮れの光の中で聞くダイナの歌は、舟と徒歩の長い旅の始まりを告げるものだった。しかし、本当の「旅」の始まりは、母の育った町を見下ろす「東の丘」にあるのだが、ルークの人生を変えることになるその出会いは、海と陸の旅の終わりにやってくる。

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