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「アバ、父よ」 神さまへの親しみを込めた呼びかけの言葉。
「洞察」の本によると、アバはアラム語で、パパみたいに親愛の情と敬意がこもった言葉。
「父」のほうはギリシャ語で、普通に父という意味。
ゲッセマネの園で、イエスが祈りの中で使われたのが、初出です。
(マルコ 14:36) …アバ,父よ,あなたにはすべてのことが可能です。この杯をわたしから取り除いてください。それでも,わたしの望むことではなく,あなたの望まれることを…
《最愛の父に対する息子の熱烈な懇願の言葉であり,そのすぐ後に,どんな事態になっても従順であり続けますという確約の言葉が述べられています》洞察より
福音書の中では「マルコ」だけがこの愛情にあふれた言葉を記述している。感謝!!
その後(たぶんペンテコステ以降)、弟子たちも祈りの中で使うようになりました。
2回だけ、「手紙」の中にあります。(ローマ8:15 ガラテア4:6)
もちろん、ボクらも使える。アバ アバー アッバ!
神さまを思い浮かべてつぶやいてごらん。
ああ、神さま大好き!
でも、どうして、「父さん、父よ」とか「パパ、父よ」とか「お父ちゃん、父よ」とか、2回も続けて呼ぶんだろう?
ボクの、今のところ根拠のない大胆な仮説では…ここは、西暦2世紀以降のいつか、新約聖書から「み名 YHWH」が除かれた箇所の一つではないか?
つまり、「父よ」のギリシャ語はもともとは「エホバ」ではなかったか。
そう、「お父さん、エホバ」「パパ、エホバ」ということ。
ボクらはいつも、そう祈っている。
イエス・キリストと「天の父」との関係を、聖書から虚心に読み取るとき、ボクの心は打ち奮えます。
父と子の、美しい愛のつながりを感受するからです。「いいな~!」と少しの羨望と多くの称賛の気持ちを込めて思うのです。
そこに「三位一体」という哲学を読み取ることはできません。そんな雑音を入れてほしくないと思うのです。
歴史的に見ても、この教理は異教からギリシャ哲学を経由して、西暦4世紀ころに「キリスト教」に忍び込んだ不純物です。
この「雑音」あるいは「不純物」を、いかにも高尚な「キリスト教哲学」であるかのように、ありがたがって、したり顔で語る人を、ボクは信用しません。その人は聖書のもっとも大切なテーマである、「神の愛」の表れを捉え損なっているからです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16 新共同訳)
「父」と「子」が、「位格(ペルソナ)」を異にするものの、「同等」であり「一つの神」の異なる側面である、などという小難しい屁理屈は「無理」です。「無理が通れば道理が引っ込む」のです。
「ペルソナ」には舞台役者がつける「仮面」という意味もありますから、一人の役者があるときは「父の仮面」をつけて語り、ある時には「子の仮面」をつけて語るという様な情景が浮かんできます。(別の時には第三の「聖霊の仮面」をつけて演技します)
例えば「子」が水の「バプテスマ」を受けた時に「父」が天から声を出して語る情景を、「一人二役」だと想像してください。
イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった。そのとき、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マタイ3:16,17 新共同訳)
そこに感動がありますか? しらけるだけではないでしょうか? 「父」はこんなに「子」を愛しているんだよ、と言われても、「だって自分自身を愛しているだけじゃん」という気持ちが浮かんでこないでしょうか? 「いや、人間を教えるためにあえてそうしたのさ」と言われても、「そんなくさい芝居はけっこうです」と言いたくならないでしょうか? そこにあるのは実に安っぽい、見せかけの「愛」ではないでしょうか?
もっと悪いことには、神さまは「ナルシスト」で「二重人格」のように見えてこないでしょうか?
ああ、こんな偽りの教理はもうたくさんです! 御免こうむります!
薫り高い、純粋なキリスト教に帰りましょう。
「アッバ、父よ」という、子どもが父親を深く愛し、信頼し、尊敬するときに発せられる言葉を味わいましょう。そして、自らも「アッバ!!」と、一人の幼子のように天の父に祈りましょう。
きっと見えてきます、光の父が。
そして、あなたの傍らにいて共に祈ってくださるイエス・キリストが。