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ミレトスを出た船はコスに寄り、ロードス島に着いた。そこに一泊した後、船は東へと向きを変えて進んだ。次の港パタラでダイナとルークは船を下りた。ここから乗り換えてフェニキア行きの船に乗れば、後は大海(地中海)をまっすぐ南東に進み、キプロス島を左に見ながら一路ティルスに向うことができる。
フェニキア地方の主要な港町ティルスは古くから陸路と海路の拠点として交易で栄えた歴史ある街だが、今はカエサレアにその地位を奪われ、最盛期のにぎわいはなくなっている。ヘロデ王が建築したカエサレアは最先端の設備を備えた人工の港で、貿易商たちを楽しませる娯楽施設として円形劇場やローマ式の公衆浴場なども整っている。ティルスをさらに五十キロほど南下したところにあり、イスラエルの首都エルサレムにも便が良い。エジプトにあるアレクサンドリアと並ぶ繁栄した都市となっている。
小アジアのトロアスからはるばるとやってきた母と子の目的地は、歴史ある港街ティルスからのほうが便が良かった。二人は幾つかの荷物と共にこの港に降り立った。乾季の今は、雨は少ないが、海からの涼しい風が二人には心地よかった。はるか北東の空にはレバノンの山系が連なって見えた。ひときわ目を引く山は、さらに東にそびえるヘルモン山だ。この時期でも山頂には白い雪が見える。万年雪だ。
ダイナとルークはティルスに一泊した。ふるさとに向う前に身支度を整えなければならない。ギリシャからの旅人に見える二人は、見知らぬ町で心細く緊張していた。夫が、父が、いない寂しさが、いまさらながらに胸を締め付けていた。
港町の朝は早い。目的地が遠い船は、夜明けを待って急いで出向していく。昨晩着いたばかりの船は、積荷となっている交易の品々を港に荷揚げしている。港の市場は水揚げされたばかりの海産品や、ティルスでしか手に入らない品々を売り買いする人々の声が早くから飛び交っている。ティルスの名産である金や銀の細工品、ほかにもガラス製品や紫の染料も相変わらず人気が高い。
ダイナが、荷物を運んでくれる隊商を探している間、ルークは荷物を見張りながら人々の様子を眺めていた。トロアスの賑わいには少し劣ってはいるが、それでも人々は明るい声をあげながら商売をしている。ギリシャやローマのいでたちをした人々は少なかった。アジア人たちはルークには分からない言葉で、大きく手を振りながら商売の交渉をしていた。男たちは黒い豊かなひげを蓄えている。女たちは母さんの髪と同じような黒くて長い髪が多かったが、一様に頭に布をかぶせている。しかし女性たちの衣服は華やかな色のものも多く、みな生き生きとした表情を浮かべている。
突然、ルークの視界の中に飛び出してきた小さなものがあった。見たことがない動物に思えた。それはうずたかく詰まれた船の積荷の上から勢い良く飛び降りたようだ。石畳に着地した小さな生き物は、運悪く通りかかった手押し車にひかれてしまった。しかし、それでも一目散にカーブを描いて走り、ルークの傍らにある荷物の間に潜りこんだ。
「おい、大丈夫かい」
そっと荷物の隙間をのぞいたルークは、うずくまって速い息をしながら、丸い大きな目をこちらに向けている生き物を見つけた。
猫だった。まだ子どもだ。勇敢ないたずら小僧は初めての大冒険でしくじってしまったようだ。
ルークが差し伸べる手に子猫はおとなしく包まれた。左の前足が折れているようだ。ルークは荷物の中からあまり布を見つけ出し、近くに落ちていた小さな木切れを添え木にして、布でしっかりと巻いた。父のアレックスが以前、飼い猫にしていたことを覚えていた。 「僕の最初の患者だよ、君は」 子猫はすっかり落ち着いて、ルークの両手に身をまかせたままだ。
「あれ、猫だ。けがしたの?」 見知らぬ少年が話しかけてきた。ヘブライ語だった。 「かわいいね。ペルシャの猫だね。君の猫?」と少年は、ルークを見つめた。
「違うよ。たった今、友だちになったばかりだよ」
少年はルークの手から子猫を受け取ると、「かわいい」とゆるんだ笑顔になった。
「アンドリュー。何してるんだ」 別の少し年上の少年がやってきた。ルークよりだいぶ背丈がある。たくましい体つきをしていた。 呼ばれた少年は「あ、ピーター、見て、猫だよ」と返事をした。 険しい表情を浮かべていたピーターは、猫と聞くとすぐに口元をほころばせた。 「あ、かわいい。ね、僕にも触らせて」 猫好きの二人は兄と弟だった。 ピーターはひとしきり子猫を撫で回すとルークを見つめた。
「君はどこからきたの?」
「トロアスから」
「ふーん。遠いね。どこにいくの?」
「母さんの町。ナザレという町」
アンドリューが叫んだ。 「ナザレだって? 何しにいくんだい?」
「帰るのさ。母さんの家に」とルークは答える。 「だって君はギリシャ人だろ?」とピーター。
「母さんはナザレで生まれたんだ。父さんはギリシャ人だけどね」
「じゃあ、半分ユダヤ人なんだね」とアンドリュー。
「うん、でも言葉はまだ良く分からない」
「半分ユダヤ人」と聞いてピーターは少し安心した。厳格な父から異国の者と話してはいけないと厳しく言われていたからだ。
ピーターとアンドリューはイスラエルの北部のガリラヤ湖畔にある大きな町カペルナウムに住んでいる。漁師の親から漁業を受け継ぐために、毎日漁に出ていた。漁師の仕事は二人にとって天職だ。魚がいっぱいに入った網を引き上げる時の興奮は何よりも勝る喜びだ。今回は父が注文した新式の魚網を手に入れるために、二人だけでティルスに来ていた。
ダイナが帰ってくるまでに、ルークは漁師の兄弟たちに、カペルナウムまで荷物を運ぶ手伝いをしてくれるように話をつけていた。ルークが告げた手伝い賃は二人にとってすばらしい現金収入になる。 隊商を探しあぐねていたダイナもほっとしたようだった。カペルナウムから先の荷運びの手伝いはすぐに見つかるだろう。