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第一話 エデンの園
●依頼者 山本夏樹 11才
●依頼内容 どうしてアダムとイブはリンゴを食べちゃったの?
●相談者 キントキ先生 年齢不詳 職業不詳
●同行者 久野いち子 年齢不詳 探偵局局長
インコ 年齢不詳 鳥
広告 あなたの知りたい謎の答えを、何でも探します。
料金は無料です。
◆◆◆
どんな謎でも解きます
料金は無料
くのいち探偵局
昔ながらの和菓子屋と、古道具屋に挟まれたその店は、小江戸と呼ばれる古い宿場町のメイン通りに面している。たくさんの観光客が、江戸時代を偲ばせる街並みを珍しそうに眺めながら通り過ぎるが、歩道に置かれた看板の、場違いな言葉には戸惑ったような表情を浮かべるのが常だ。
年配の男女のリアクションは少ない。たいていは見なかったことにして、
「なんだかなー」と他の方角へと眼を向ける。
若いカップルは、
「どんな謎も解くんだってよ。しかも無料。なんだろ。なんか怪しくね?」
「変よね。無料なんてね。なんか裏がありそう。こわーい」とか、
「どんな謎でもって、学校のテストの問題も教えてくれるってことかな。もしかして宇宙の果てはどうなっているのかってことも教えてくれるのかな」
「私たちの相性も教えてくれるかしら」
「それじゃあ、占いだよ。ははは」
などと、楽しそうに話しながら通り過ぎる。
何で君たちが江戸時代に興味があるの、と言いたくなるような今どきの若者たちの一団もけっこう通る。
「ねえ、これ見て、うけるぅー」
「ほんと、まじぃー? やばいんじゃない」
「ほんと、ちょーやば」
「写真とろ。イエーィ」
哲学的な言葉を発するのは熟年夫婦だ。
「ふむ。僕が生まれてきた理由も分かるのかな。そもそも人生にはどんな意味があるのか知りたいね」
「そうですね。でも私たちが出会って過ごしてきた年月に意味がないわけないわ。そうでしょ?」
「そうだな。君のおかげでいい人生だったよ」
「また来年も一緒に来れるといいわね」
そんな、様々な反応を見て楽しむために、この看板が掲げられているわけではなかった。探偵局の局長は依頼者を選んでいた。
看板の言葉に、疑い・不安・恐れ・嘲りなどの気持ちを抱かない純粋な心と、見知らぬ薄暗い店内で見知らぬ人物に依頼してまでも解きたいほどの切実な疑問。この二つを持ち合わせるという条件にかなった者だけが、選ばれた依頼者ということになる。
この条件をクリアした者が偶然に通りかかる確率は少ない。二ヶ月に一人くらいのものだ。開業以来の三年間で十七人のクライアントがあった。十五歳以下の子供が十人を占めている。十六歳から十九歳の若者は四人。二十歳以上は二人だけだ。
ときおり、明らかに冷やかしであると分かる男女が笑い声を上げながら格子のガラス戸を引いて入ってくることがある。「みんなで入れば恐くない」という心理なのだろう。だが、彼らは何も冷やかすことができないまま時間を無駄にすることになる。何もない店内では誰一人応対する者が現れないからだ。部屋の隅に、目立たないように置かれた鳥かごの中にいるワカケホンセイインコが、気味の悪い甲高い笑い声を響かせるだけなのだ。そう、彼らは反対に冷やかされてしまい、「気持ち悪い」とつぶやきながら帰っていくことになる。
純粋な心と切実な疑問という条件―大げさに言えば真理を知るための必要条件―にかなう者が、店の格子戸をおずおずと引き開けた場合だけ、「ようこそ」と甲高いしゃがれ声が店内に響くことになる。インコが嬉しそうに羽ばたきながら出す声だ。
六月の末、一気に夏の暑さになった日曜日、ハンカチやうちわを手にした観光客でメイン通りはにぎわっていた。薄暗くて冷んやりとした店内に、ひさびさにインコの声が響いた。
◆
ナツキは格子になったガラス戸をそっと引いてみた。思ったよりもすべりが良かったので、すぐに自分が通れるほどの隙間ができてしまった。あれっと思うまもなく、左足そして右足が勝手に進み、ナツキは薄暗い店の中に入っていた。自分でも不思議だった。どうしたんだろう?
天井が高かった。がらんとした部屋だった。表から見た時は間口の狭い小さなお店に見えたのだけれど。入ってみると嘘のように広い。土間になっている部屋の中央に、丸い木製のテーブルが一つあり、その上に古めかしい黒い電話が置かれている。渦巻きのような形をした足のイスが二つ、丸テーブルに添えられている。それだけだ。部屋の正面には一段高くなって畳敷きの部屋がある。なんだか田舎のおうちのようだな、とナツキは思った。
突然、後ろから声が響いた。
「ヨーコソ!」
びくっとして振り返ると、大きな鳥かごの中で、明るい緑色をした鳥が止まり木の上で体を揺らしていた。首の周りに黒い輪のような模様がある。赤い、曲がったくちばしを動かして何事かをつぶやいている。
「きれいな鳥」とつぶやいたナツキに答えるように、緑の鳥はふたたび声を出した。
「ヨーコソ! ヨーコソ! ゴヨーのカタはデンワでオハナシクラサイ」中年のおじさんみたいな声だ。
えっ? ナツキは丸いテーブルの上にあるダイヤル式の黒い電話を見た。受話器にレースの布カバーが巻かれている。
ナツキはためらった。
《何番にかけたらいいんだろう。やっぱり止めておこうかな》
「デンワでオハナシくらさい」とインコが先ほどよりも大きな声でせかすように言った。ナツキは思わず、はい、と答えて受話器を耳に当てた。すぐに若い女の人の明るい声が聞こえてきた。
「こんにちは。お名前とお年を教えてください」
「あっ、はい。山本夏樹です。えーと十一才です」
とナツキは素直に答える。
「ナツキちゃんですね。小学生かな」
「はい。六年生です」
「ナツキちゃんが解きたいと思っている謎はどんなことですか」
電話の声はいきなり本題に入った。ナツキは「ふぅー」と息をはくと、すっかり覚悟を決め、気になっている疑問を打ち明けた。
「あの、アダムとイブはどうしてリンゴを食べちゃったのでしょうか」
「なるほど、たしかに謎ですね。ではキントキ先生に聞いてみましょうね。キントキ先生お願いします。……先生!」
電話のお姉さんは近くにいるらしい人に呼びかけた。
「あっ、私ですか。そうですか。えーとナツキちゃん、でしたね。キントキです。よろしくね。えーと、ナツキちゃんはどうして答えを知りたいと思ったの」と、すこしあわてた中年の男の声でその人は尋ねた。緑の鳥の声に似ていた。
ナツキは、本当は心配性で人見知りをする性格だったが、優しいお父さんのような電話の声に対しては、なぜだか思いきって話すことができるような気がした。ごくりと、つばを飲み込んでから、この探偵局の扉を開けた理由を説明し始めた。
「お母さんが『聖書ものがたり』という絵本を読んでくれたんですけど、はじめのほうで神様が作った人間のアダムとイブが、食べちゃだめって言われたリンゴの木の実を食べちゃったんです。それで幸せに暮らしていたエデンの園から出て行かなくてはならなくなって、年を取って死ななくてはならなくなってしまったんです。子孫も全部、病気になったり生きることが苦しいことばかりになってしまったのです。私のお父さんも三年前に病気で死んでしまいました。私は生まれつき体がインシュリンというホルモンを作ることができない体質なので毎日自分でインシュリンの注射をしなければならないんですけど、とてもつらくて……。自分のことは仕方ないけど、アフリカでは毎日何万人もの子供たちが、食べ物がなくて死んでゆくそうだし、豊かな国だって戦争で殺しあったり、人種差別したり……学校でいじめが多いのもアダムとイブのせいなんじゃないでしょうか。私、いろいろ考えていたら腹が立ってきてしまったんです。アダムとイブさえあんなことをしなければ、人間はみんな幸せに暮らすことができたのに、何で神様の命令に逆らってしまったのでしょうか。エデンの園には他にも美味しい木の実がいっぱいあったのに、何でだめって言われたリンゴを食べちゃったんですか!」
「ふむ。ナツキちゃんはかなり怒っているようだね。もしも、アダムとイブに会えたらどんなことを聞いてみたいかな」
「もし、アダムとイブに会えたら、『どうしてあんな馬鹿なことをしたのですか』って聞いてみたいです。私たちが今どんなに困っているか、ぜんぶ話したいです」
「なるほど。これは切実な問題ですね。《電話のお姉さん……じゃなかった、局長、いいですかね……わかりました。ごほん》」
キントキ先生と呼ばれた男は誰かと相談してから言った。
「えー、ではナツキちゃんの疑問にお答えすることになったので電話を切ってそのまま待っていてくださいね。がんばってね」
男は電話を切った。ナツキはまだ言い足りない気持ちのまま受話器を握りしめていた。
《がんばってね、ってどういうことかしら》
ナツキは待っている間にあらためて部屋の中を見回した。高い天井には太くて四角い材木がむき出しのまま部屋を横切っていた。壁は木目がきれいにみえる板づくりだ。濃い茶色なので部屋が暗く感じる。天井にある明り取りの窓から光が差し込んでいた。電気の器具はどこにもないようだった。土間を上がったところにある畳の部屋には何も置かれてはいない。その奥に、何も描かれていない真っ白なふすまが四枚並んで閉じられている。暗い店内で光が当たっていないはずなのに、光っているように見えた。このふすまが開いて誰かが来るのだろうと考えていると、思いがけなく、インコのかごの後ろにある木戸が開き、人が入ってきた。
つば広の白い帽子をおしゃれにかぶった若い女性だった。夏らしく、首周りを大きく涼しげに開けた水色の半そでのワンピースを身に着けていた。肩から斜めに白いポシェットをさげている。細い脚の先には赤いハイヒールの靴が光っていた。
「ナツキちゃん、お待たせしました。私、くのいち探偵局の局長の九野一子です。よろしくね」
電話のお姉さんの声だった。
きれいなお姉さん、とナツキは思った。キティちゃんの顔が描かれたTシャツを着て、縞模様の半ズボンに、普段履きのズックを履いている、という自分の姿を少し恥ずかしく感じた。
「では、これからナツキちゃんの疑問の答えを探しに行きます。時間はかかりませんよ。でも、ちょっとだけ注意点があります。ナツキちゃんなら大丈夫と思うけど、今から起きる事は、後で他の誰にも話さないでください。自分だけの秘密にしてくださいね。お母さんにも言ってはだめですよ。だいじょうぶですか」
「はい。だいじょうぶです。誰にも言いません。わたし、あまりおしゃべりじゃないし」
ナツキの答えに微笑んだお姉さんは説明を続けた。
「それと、この探偵局の宣伝は絶対にしないこと。つまり、謎の答えを知ったのがこの探偵局であることは誰にも言わないでください。もし、この探偵局を紹介したい人がいたら理由は言わないで店の前の道を歩くように勧めてください。その人が看板を見つけて、自分からこのお店に入りたいと思うのならば、そうすることができますからね」
「わかりました、お姉さん」
「これから私のことは局長と呼んでください。では行きましょう」
お姉さん、いや局長はナツキの手を引くと、赤いハイヒールを脱いで手に持つと、畳の間に上がった。ナツキも同じようにズックを脱ぎ、手に持って、局長の後に続いた。
「じゃあ、入るわよ」、
「はい、局長」
二人はふすまの取っ手に手をかけた。そのとき土間にあった鳥かごから抜け出したインコが宙を飛び、つば広の帽子をかぶった局長の肩にとまった。局長はかまわずに右のふすまを開けた。ナツキも同じように左のふすまを勢い良く開いた。
二人は明るい光の中に足を進めた。
◆

ナツキは自分がどこにいるのか分からなかった。地面の上に倒れているようだった。背丈よりも高い大きな草が一面に生えていて、周りの景色は見えなかった。まるで温室の中にいるみたいに暖かくてじめじめしていた。
「うわぁ」
ナツキは自分の隣に異様な気配を感じて声をあげた。大きな蛇のような生き物が、とぐろを巻いていたのだ。水色の蛇だ。
「きゃー」と叫んで逃げようとしたが脚が動かない。手も動かない。まるで手足がなくなってしまったように感じた。体をよじるようにして何とか前に進むことができた。
「待って。私よ」と人の声が聞こえた。あのお姉さんの声だ。
後ろを振り返ると水色の蛇が笑顔を向けた。たしかに蛇が笑ったようにナツキには見えた。瞬きをしない二つの目を細めていた。長いまつげがしっかりとついていた。
蛇は長い舌をちょろちょろと出しながら声を出した。
「ナツキちゃん。良く見て。私ですよ。くのいちこ。局長です。……そうか、そうよね。エデンの園のアダムとイブの時代は他に人間がいなかったのよね。だから私たちは人間にはなれなかったのね。あはははは」
大きな蛇は愉快そうに笑い声を上げた。良く見ると頭の上に小さな幅広の帽子のようなものがちょこっと乗っている。首の部分から下が水色をしているし、小さな白いポシェットも斜めにかかっている。やっぱり、あのお姉さんだ。不思議と目が慣れてきて、お姉さんは始めから蛇だったような気がしてきた。
ということは、
「キャー」
おそるおそる視線を下げて自分の体を見たナツキは、ふたたび悲鳴を上げることになった。自分の体も細長い蛇なのだ。
「うわっ」
恐る恐る見ると、胸のうろこはキティちゃんみたいな模様になっている。腰の辺りは縞模様だ。これだけは蛇らしい模様だと、ちょっとに思った。しっぽの先がくるりと小さく丸まっている。ちょっとかわいいかも。腰にはちゃんとポーチもついていた。
近くにある平たい大きな石の上に、お姉さんの赤いハイヒールと自分のズックが転がっていた。しかし、その大きさは4倍くらいに大きくなっていた。
「そうか。私は普通の蛇の大きさになっているのね。どうやら本当にエデンの園に来ているみたいだわ」
ナツキは落ち着いて状況を理解しようとした。
水色の蛇、じゃなくて局長が説明を加える。
「この靴のある場所を覚えておかなくてはならないわ。帰りもここで靴を脱ぐのよ。いつもならね。でも今回はそもそも靴を履くための足がないわね。どうなるのかしら。まあ、いっか。なんとかなるでしょ。ナッちゃん、もっと広い場所に行きましょう」
「はい」
二人は、いや二匹はくねくねと体をよじらせながら草の中を進んだ。意外に便利な進み方だった。スピードもびっくりするほど速くて気分が良かった。なかなか視界が広がる場所に出なかったので、大きな木に登ってみることにした。木の幹は思ったよりごつごつしていたし、体のうろこがぎざぎざになっていたので二人は器用に登ることができた。すっと視界が広がった。二人は息をのんだ。なんて美しいところだろう。まるでエデンの園だ、と考えた時、本物のエデンの園にいるんだ、とナツキは思った。
世界は不思議なやわらかい光に包まれていた。
空は、海の底から水面を眺める時のようにわずかに揺らめきながらも青く透き通っている。ジャングルのような緑の木々のむこうに低い山並みが青く見えた。
目の前には清らかな小川が音を立てて流れている。水がきらきらきらと輝き、鏡の反射のように、流れのほとりの木々の葉の上で光が踊っていた。
水辺には大きなシダのような植物が茂り、水の流れに揺れている。タニシだろうか、小さな貝がみずのなかを動いているのが見える。少し深くなっているところには小さな魚の群れが銀色にきらめきながら素早く泳いでいる。
岸辺には南国の島に生えていそうな様々な低木が茂り、きれいな赤や黄色の花を咲かせている。不思議な甘い香りが風に乗って漂っていた。
川の流れにそって、明らかに人の手が加えられて作られた小道が続いていた。小道の両脇にはポプラのような、大きな葉を茂らせた木が街路樹のように同じ間隔で生えている。
虹色に輝く二羽の鳥が追いかけっこをして木々の間を飛び回っていた。長い尾羽の先が孔雀の模様のように丸くなっている。
小川の上空は蝶の通り道なのだろうか、黒いアゲハ蝶が何十匹も、るり色の模様をひらひらと上下させながら下流へ向って飛んでいく。
景色に目を奪われていた局長とナツキは急にお腹が減ってきた。果物の甘い香りが川の上流から漂ってきているからだ。遠くに果樹園のように、実のなる木々が集まっている森が見えた。
「あっちに行ってみましょう」
「はい」
水色の蛇と胸にネコの顔が描いてある小さな蛇は高い木を上手にすべり降りると、草の生えていない小道をするすると進んで川の上流へと向った。二人は上手に体をくねらせて進むリズムを覚えてきた。なんだか楽しい。思わず目が合った。二人とも微笑んでいた。
果樹園、と言っていいだろう、そこには大きな実をつけたたくさんの木が立ち並んでいた。
「私、あのマンゴーみたいな木の実を食べたい」
言うが早いか、ナツキはすぐにつるつるした木の幹を上手に登り、甘い香りを放つ実にがぶっとかじりついた。おいしい! なんてみずみずしくて甘いんだろう! 幸せを胸いっぱいに感じた。
隣の木を見ると、局長が大きな口をいっぱいに開いて丸い果実をまるごと飲み込んでいるところだった。果実はどんどん水色の胴体の中を進んでお腹が異様に膨らんだ。ポシェットは腰にまで下がっている。
「うー、苦しい。丸呑みにするのは良くないわね」
局長の声がした。
ナツキは局長の姿を見て笑いをこらえることができなかった。今までの緊張が解けて、友達に対するように話しかけた。
「あはははは。局長は食いしん坊なのね。そんなに大きなお腹をしていたら這っていくのがたいへんね」
「そうね。失敗したわ。味も良くわからなかったし。もう一つ食べましょうね」
局長は、げっぷを何度もしながら、赤みをおびた緑色の果物を口をすぼめてかじり出した。果肉は黄色だ。美味しそうな果汁が流れる。
「初めて食べる味だけど、すごく甘くて美味しいわね。げぷっ」
その様子を笑いながらみていたナツキは、近くの枝の上から二つの大きな目が自分をじっと見つめていることに気付いてぞくっとした。生気のない冷たい目だった。
「うわぁ、誰?」
返事はなかった。二つの目はじっと動かない。良く見ると、それは木の枝に巻き付いていた大きな蛇の抜け殻だった。抜け殻とはいえ、目や口ははっきりとした形が残っているし、うろこにおおわれた全身の形もしっぽの先に至るまでそのままになっている。
「うわぁ、気持ち悪い。蛇の抜け殻なんて初めて見るわ」
ナツキは今の自分の姿を忘れて声を出した。
「本当ね。気持ち悪いわね。それにこの蛇の顔はなんだか冷たい表情をしているわね」と隣の木の上から局長もうなずいた。
バシャン。その時とつぜん、何かが水の中に落ちたような大きな音が聞こえた。続いて女性の明るい声が聞こえてくる。
「ねえ、こっちよ。いらっしゃい。そうよ。こっちこっち。だいじょうぶよ。ははは」
バシャン。さっきより小さいが、また水の音が聞こえた。
局長とナツキは声のする方角を確かめた。茂った木々のむこうから聞こえてきた。二人はお互いに目を合わせると、無言のまま木の幹を慎重に這い降りて、声のする方角へと向った。
女性の声は誰かに話しかけている。
「そうよ。上手ね。こっち、こっち。まあ、上手に泳げるじゃない」
果樹園の丘を越えると大きな湖があった。湖のほとりの一本の木に二人はするすると登った。その木には楓の葉のような形をした葉がたくさん茂り、秋の盛りのように赤く紅葉していた。
湖の水は信じられないほどに透明に澄んでいる。空には太陽が輝いているが、いつも見慣れた光とは少し違う。輪郭がはっきりしない優しい光だ。
透き通った水の中で長い髪の女性が立ち泳ぎをしている。大きな猫ほどの大きさの動物が一緒に泳いでいた。
「イブ……」夏樹はつぶやいた。
「トラの子供?」とナツキは思った。家族で行った動物園で見たトラの子供にそっくりだ。
女性はトラの子を胸に抱えながら水から上がってきた。裸のままで何も身につけてはいなかった。岸辺の草の上に足を伸ばして座ると、両手を後ろにつき、長い髪を後ろに垂らして太陽をまぶしそうに見上げた。美しい体だった。ナツキの目は豊かな乳房に釘付けになった。局長は小さな声で「長くてきれいな足ね」とつぶやいた。少し悔しそうな言い方だった。
トラの子は女の人が足を動かすと子猫のようにじゃれ回った。
「かわいい」
思わず微笑んだ二匹の蛇は、次の瞬間、目に飛び込んできた光景に、体が凍り付いてしまった。視線の向こうにある竹林の間から、トラのような野獣が姿を表わしたからだ。普通のトラの二倍はありそうな大きな体だった。二本の牙が剣のように長く伸びている。
木の上の二人は思わず大声を出した。
「あぶない。逃げて」
「トラよ。トラが来るわ」
裸の女性は二人の声を聞いて、びくっとしてあたりを見回したが、あわてた様子は見せなかった。トラの子を抱き上げると、なんと、大きな野獣に自分から近づいて行く。
「だめよ。あぶない」
ナツキは精一杯の大声を上げた。野獣は、喉の奥から絞り出すような唸り声を出したが、近づいてきた女性に大きな体をすり付けた。猫が甘えるときのようだ。うなり声のように聞こえたのは喉を鳴らす甘え声だった。
「元気?」
野獣に声をかけると、女性は子供のトラを野獣の首に乗せ、自分も、よいしょと、まるで馬に乗るように勢いをつけてトラの背に飛び乗った。ナツキには信じられないような光景だった。

お腹の膨らんだ水色の蛇は、あわてて大声を出した拍子に木の上から落ちそうになり、枝にしっぽを巻きつけてぶら下がっていた。女性はトラの背の上で子供のような歓声を上げていたが、水際の木の枝で揺れている水色の蛇を目ざとく見つけた。トラの背中から降りて、不思議そうな眼差しで近づいてくる。
「さっき、私に呼びかけたのはあなたなの? まあ、きれいな色をしているわね。でもちょっと太り気味ね。ふふ」
裸の女性は、蛇の膨らんだお腹を人差し指でつついた。
局長は、ふくらんだお腹が重くて体勢を立て直すことができないままぶら下がっていたのだが、女性の言葉に心が傷付いたようだ。憤然として言い返した。
「あなただって、ちょっと太りすぎよ。最近は細い女性がもてるのよ。胸だってちょっと大きすぎね」
女性は自分の体に目をやったが、局長の言葉の意味が分からないようだ。何も言わずに首を少し傾げると、水色の蛇をそっと手につかんで木の枝に乗せた。
「あなたも言葉を話せるのね。緑の蛇さんと同じね。頭にかぶっている物がかわいいわね。これは何かしら?」
「帽子よ。似合うでしょ」
「ボウシ? 何のためにかぶっているのかしら」
「おしゃれのためもあるけど、夏は日に焼けないためね」
「おしゃれ? 日に焼ける? どういう意味かしら」
二人のやり取りを黙って聞いていたナツキが声を出した。
「私もしゃべれます」
ナツキに気が付いた女性は声をあげた。
「まあ、かわいい。小さな蛇さんね。あら、胸のところに模様があるわ。ああ、ネコさんの顔ね。おひげもついてる。かわいい」
ナツキは得意そうに胸をそらした。しっぽの先が揺れた。しかし、すぐにここに来た理由を思い出した。
「あの、あなたはイブ……イブさんですよね」
「そうよ。ごぞんじなのね」
「ごぞんじですとも」と局長が口をはさむ。
ナツキはまず自己紹介が必要だと思ったので思いつくままに話した。
「私の名前はナツキといいます。日本から来ました。小学校六年生です」
「ナツキさんね。ニホン? ショウガッコウロクネンセイ? 分からないわ」
ナツキは自己紹介が無駄であることを知ると、すぐに一番の疑問を投げかけた。
「では質問します。イブさんは、どうしてリンゴの実を食べちゃったのですか」
「リンゴの実? 食べる? それはおいしいのですか」
どうも話がかみ合わないようだ。その時、男性の声が聞こえた。
「おーい。イブ。何してるの」
『アダムだ』と局長とナツキはすぐにピンときた。エデンに他に男性などいるはずがないからだ。
声の方向に目をやった二人は「キャー」と叫んだ。近づいてくる男性は全裸だったからだ。本当に何も身につけていなかった。二人は目のやり場に困ってしまったが、蛇なので目をふさごうにもまぶたが無かったし、手も無かった。やはり不便だ。しかたなく二人はアダムの顔に視線を合わせた。優しそうな表情をしていた。顔中に豊かなひげが生えていた。
「あっ、アダム。新しいお友達よ。えっと、ナツキさんと……」
「いちこ、です」局長は本名を名のった。
「はじめまして」とナツキがあいさつした。
「えっ、きみたちも言葉を話せるのかい」とアダムは驚いた様子だった。
「ほらね。私の言った通りでしょ。この間あの緑色の蛇が確かにしゃべったって」とイブが少し得意気に言った。
「ふーん。神様は蛇も言葉が話せるように作ったのかな。あの緑色の蛇が話すのを聞いたことはないし、少し変だと思うのだけど……」
アダムは考えるような表情になった。
局長がたくみに説明した。
「私たちは遠いところからやってきました。エデンの園がとても美しいところだと聞いたから見学に来たのです。本当にすばらしいところですね。少しの間、ここにお邪魔してもいいでしょうか」
イブは嬉しそうに話した。
「わあ、うれしいわ。私、話し相手が欲しかったの。最近はアダムも園の管理で忙しいし。ねえ、いいでしょ」
アダムも、園をほめられたことがよほどうれしかったのか、無邪気な笑顔を浮かべてうなずいた。
「もちろん。かまわないさ。それにこの園は神様のものだしね。私は園の管理を任せられているのさ。やりがいのある仕事だよ。手をかければかけるほど成果がでるのさ。この園をもっともっと広げていく必要があるんだ。こんなにすばらしい世界と役割を与えてくれた神様に感謝しているんだよ」
ナツキは心配になって局長に耳打ちした。
「わたし、そんなに長いことここにいられないわ。お母さんも心配するし」
「だいじょうぶよ。こっちの世界の一日は、元の世界の一分くらいなものなのよ。たとえ一ヶ月いたって三十分にもならないわ」
「そうなんだ。じゃあ、だいじょうぶね。ハワイ旅行に来た気分で楽しんじゃおうかな。水着は持ってこなかったけど……必要ないわね」
ナツキは自分の体を見て、あきらめたように首を振った。心配性はどこかへ行ってしまったようだ。わくわくした楽しい気持ちが湧いてきた。
エデンでの一週間が夢のように過ぎた。
ナツキと局長は毎朝日の出と共にアダムとイブの側で目をさました。アダムはまず妻の手を取り、神様に祈りを捧げた。感謝の祈りだった。二人の生活には一日中笑いが絶えなかった。動物の面白い仕草を見るとお腹を抱えて地面の上を転げまわった。アダムは笑い上戸だった。その大きな笑い声はかなり離れたところからも聞こえてくる。二人の会話や仕草から互いに深く愛し合っていることが伝わってきた。
ナツキはアダムが大好きになった。こんなお父さんが欲しいなと思った。アダムの肩の上がナツキの好きな場所になった。局長はさすがに遠慮をしてアダムの肩に乗ることはなかったが、ときおり優しく自分の頭を撫でてくれるときには嬉しい笑顔を隠せなかった。
局長はイブと親しくなった。イブをもっとおしゃれな女性にしようと勝手な努力を傾けていた。イブのほうでも局長の提案を試して気に入ったものはすぐに取り入れていた。局長がポシェットに入れて持ってきたものはほとんどが化粧品だ。手鏡も入っていた。イブは自分の姿をはっきりと映す鏡に興味しんしんだ。口紅は、一度だけ付けてみたが、「気持ち悪い」と言って二度と付けようとはしなかった。局長も鏡を見るとがっかりするのでお化粧はしなくなってしまった。
イブがいちばん気に入ったのは長い髪をいろいろなスタイルに編んだり束ねたりすることだった。髪飾りと首飾りもたくさん作った。イヤリングもイブは気に入ったようだ。植物のツタや葉や花、小石や貝殻などを拾ってきては、イブと局長は賑やかにおしゃべりをしながら夢中でアクセサリーを作る。局長は自分の手が使えないことがもどかしいようだったが、細長い体と長い舌を器用に動かしてイブに教えた。イブは手先が器用だったので何でもすぐに覚えた。小さな首飾りを作って局長とナツキにプレゼントしてくれた。今は幅の広い木の葉を利用して帽子を作ることに夢中になっている。
アダムとイブの毎日は意外なほどに忙しかった。二人は園をどのように整備したら良いかについて真剣に話し合っていた。イブは、花を咲かせる小さな草木の担当になっていた。イブがつけた名前がその花の名前になった。何百という種類の草木の名前をつけ、それをすべて覚えていた。それでも毎日のように新しい草木が見つかり名前をつける必要があった。アダムと相談しながら種をまいたり苗を植えたりする。手馴れた園芸家のように働いていた。
「イブが来てから、エデンがずっと美しくなったよ」と、アダムはイブの働きをほめていた。
エデンは、端から端まで歩くと何時間もかかった。中央に大きな湖があった。水は泉となって湧いてきているようだ。湖から四つの川が流れ出していた。名前がつけられている。ピション、ギホン、ヒデケル、ユフラテだ。
ピション川の流れ下るところは広い草原になっていてアフリカで見かける多くの動物がすんでいた。ライオンも象もキリンもシマウマだっていた。びっくりしたのはライオンが草を食べていることだ。シマウマとライオンは仲良しだった。母ライオンと母シマウマが並んで立っている横で、子供たちが仲良く追いかけっこをしていた。
ギホン川の岸辺でこの一週間、アダムとイブは夜を過ごした。このあたりはまだ草木の整理が十分でなかったようで、アダムはあちらこちらを歩き回りアイデアを練っているようだった。
エデンの中央に、湖に沿った小高い場所に特別に美しい園が作られていた。そこにアダムとイブの「家」があった。
家といっても屋根や壁があるわけではなかった。テニスコートくらいの大きさのその場所には、緑の柔らかい芝生が敷き詰められている。周囲には、ぐるりと、色とりどりの花が咲く草木が植えられている。いつでもそよ風が吹いている良い香りに満ちた場所だった。イブは局長とナツキをつれて「中央の園」にあるこの「家」に何度も足を運んだ。エデンのどこに行くにしても道はまずここから始まっているからだ。
「この『中央の園』は特別に美しいところでしょう。神様がアダムのために作った園なのよ。土地の形に合わせて石や木や草花が配置されていてすばらしいわよね。私はいつもこの場所を通るたびに園作りのアイデアが浮かぶのよ。神様はアダムにこう言ったの。『子を産んで多くなり、地に満ちて、それを従わせよ。そして、海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ』ってね。それとね、あの木は特別な木なのよ」
イブが指差す先にその木はあった。
「とても美しい木でしょう。幹と枝のバランスが取れているわよね。葉っぱの形と色も珍しいわね。木の実も美味しそう。でもね、この木の実だけは決して食べてはいけないのよ。アダムがそう言ってたわ。神様から命令されたのですって。園の中にある木の実はどれでも好きなだけ食べていいのだけれど、この『善悪を知る知識の木』の実だけは食べてはいけないのですって。」
ナツキは局長と目を合わせてつぶやいた。
「リンゴのような形ではないのね」
「そうね。洋ナシみたいな形ね。確かに美味しそうね」と局長もため息をついてつぶやいた。
イブは首を横に振りながら話を続ける。
「この木には触れてもいけないのよ。神様の言うことはちゃんと守らなくてはいけないの。だって私たちに命を与えてくださった方なのですからね。それにこの園の中にある何もかもが神様からのプレゼントなのよ。何も不足はないわ。……でもね、このあいだ、緑色の蛇が突然私に話しかけてきたのよ。この木の実を食べると私はすごい知恵を身につけることができるのですって。神様は、私やアダムが今以上の知恵を持つことを良く思われないらしいの。どうしてかは分からないけどね。でも神様の言うことは絶対に守らなくてはならないのよ。絶対にね。この木の実がどんな味がするのかはちょっと興味があるけれどね。触ってはいけないの。においを嗅ぐだけならいいのかしらね、ちょっとだけ賢くなったりしてね、ふふ」
イブは木のほうに鼻を向けてにおいを嗅ぐようなそぶりを見せた。
「ここからでは匂わないわね、ふふふ」
黙って聞いていたナツキはたまらずに声を出した。
「絶対に食べちゃだめよ。たいへんなことになるのよ。緑の蛇は嘘つきなのよ」
「嘘ってなあに?」イブは花冠を乗せた頭をかしげた。まだ一度も嘘でだまされた経験がないのだ。
その時、とつぜん聞きなれない大きな音が聞こえてきた。見上げると何百匹もの鳥の群れが大空を飛んでいた。
「あっ、フラミンゴよ。帰ってきたのね。見に行きましょ」とイブが走りだした。局長とナツキもするすると後を追って体を器用にくねらせて進んだ。今ではナツキのほうが速く進むことができるようになっていた。

湖はバラ色に染まっていた。何百匹ものフラミンゴが浅瀬に集まっていた。他にも白鳥の群れが水の上を泳いでいる。子供の白鳥たちが、まだ茶色い体を揺らして親鳥の後を追いかけている。少し深いところでは大きなカバの群れが水を豪快に跳ね上げながら泳いでいた。ワニの群れは水辺でおとなしく日光浴をしているようだ。フラミンゴが何も恐れずにワニの間を歩き回っている。ここには強い者が弱い者を食べるというような自然のおきてはまったく無かった。ナツキは、本当はこれが当たり前のことだったのねぇ、と何度もため息をついた。
エデンでの二週間が過ぎようとするころだった。ナツキはアダムとイブの「家」で目をさました。アダムは一人で仕事に出かけた。ナツキは局長とイブと一緒に午前中はおしゃべりとアクセサリー作りをして過ごした。午後になって三人はアダムがいるギホン川の下流へと向かう。「中央の園」にある「善悪の知識の木」の近くを通った時、ナツキは見慣れない緑色の大きな蛇が木の枝に体を巻きつけていることに気付いた。
「あっ、緑の蛇さんだ」とイブも気付いて近寄っていった。三つ網にした髪の毛の束が何本もイブの頭から下がっていた。赤、黄、青、白、紫、ピンクの花がたくさん飾りつけられていた。
ナツキと局長は驚いてイブを止めようとしたが、声が出なかった。体も凍りついたように動かなくなってしまった。
「やあ、イブさん、お元気でしたか。しばらくぶりですね」と緑の蛇が声を出す。優しい声だった。
「まあ、緑の蛇さん、しばらく会わなかったわね。私は今日も元気よ。蛇さんは元気? どこに行っていたの」
「地の上をあちらこちらと行っていました。これでもけっこう忙しいのですよ。私にも神様は仕事を与えてくださっているのでね」
「そうなのね。お互い忙しいのね。そうだわ、新しい友達を紹介するわ。あなたと同じ蛇さんたちよ。あれ、いないわ。先に行ってしまったのかしら」
イブには近くにいるナツキと局長の姿が目に入らないようだった。
「緑の蛇さんはこの木の実に触れても大丈夫なの?」
「はい。神様は私にはなんにもおっしゃらなかったのですからね。私はこの通り木の実に触れることも、食べることだってできるのですよ。実は私がこうしてイブさんとお話できるようになったのもこの実を食べたからなのですよ」
「そうなの。やっぱり知恵がつくのね。あの二匹の蛇さんたちも、他のどこかでこの木と同じ種類の木の実を食べたのかしら。私も、もっと賢くなってアダムの役に立ちたいわ」
「まあ、神様のお考えは分かりませんが、食べても死ぬようなことはないと思いますよ。あなたやアダムがもっと賢くなって、自分でいろいろなことを考えるようになると、神様も困るのかもしれませんね。でも、まあ、死ぬなんてことはないですよ。絶対に。私だってこうやって元気に生きていますからね」
「ふーん。神様のお考えは何なのかしら。分からないわね」
「もっと賢くなって役に立ちたいという良い心からなら木の実を食べても神様はちゃんと分かってくださると思いますよ」
イブは、木の実をじっと見つめていた。
《だめよ。食べちゃだめ》
ナツキの言葉は声にならない。夢の中で何かを話そうとしても、どうしても声にならない時に似ている。
「いい香り。ちょっと枝に触るだけなら大丈夫よね」とイブがつぶやいた。
《だめよ、イブ》
局長も声が出せない。しっぽをばたばたと振ることができただけだ。
ナツキは緑色の蛇の口が少しも動いていないことに気付いた。
《あの蛇は何も話してはいないわ。何て言ったっけ、あの、人形が話しているように見えるのは。そうだ、腹話術よ。誰かがあの蛇を使って腹話術をしているのよ》
局長がナツキの言葉に答えた。
《そうね、きっとサタンよ。始めは良い天使だったのだけど、自分の美しさや知恵に酔ってしまって心が傲慢になってしまった天使よ。そして、いつも神様の悪口を言うようになってしまったの。きっと神様のことをねたんだのね。アダムとイブを自分の味方にしようとしているのよ。うそつきで自己中心で意地悪なやつ、サイテーな奴》
木の下のイブはそっと手を伸ばして木の実に触れた。
《だめっ》ナツキが叫ぶ。
《だめよ、イブ》局長も叫ぶ。
いつの間にか、緑の蛇は善悪の知識の木の枝から離れて、ナツキと局長の近くに忍び寄っていた。冷たい表情が怒りにゆがんでいた。緑の蛇は鎌首を高く持ち上げると口を大きく開け鋭い牙をむき出しにした。ナツキと局長は身動きができない。
蛇の毒牙がナツキの首に突き刺ささろうとした時、大きな鳥の羽音が響いた。ナツキの目の前を、羽毛がきれいに並んだ風切り羽がすばやく通り過ぎる。緑の蛇は宙に舞い上がった。その頭にはオオワシの爪がしっかりと食い込んでいた。オオワシは翼を強く羽ばたき、もがいている緑の蛇をしっかりつかんだまま、遠くへ飛び去った。「ヨーコソ」という高く鳴く声が空から聞こえてきた。

ナツキと局長はやっと体を動かすことができるようになった。振り返るとイブが木の実をかじろうとしているところだった。
「イブ! 止めて」二匹の蛇は大声で叫んだが間に合わなかった。
イブは木の実を一口食べた。何も起きなかった。首を傾げるともう一口食べた。
ナツキと局長はいそいでイブの手を止めようとしたが、イブには何も見えないようだ。二人の声も聞こえない。
「アダム」と小さくつぶやいたイブは無表情だった。木の実を手に持ったまま、アダムのもとへと向った。
「止められなかったわね」
局長が木の枝の上でつぶやいた。
ナツキは無言で胸をふるわせていた。
局長は木の枝の上から周りの風景を見回した。エデンの「中央の園」からは湖の全体を見渡すことができる。フラミンゴの群れがいっせいに飛び立った。ワニたちが草むらから水の中へと静かに進んでいる。熊の親子が水を飲みに来ていた。子熊が無邪気に跳ね回っている。
「この美しい園も失われてしまうのね」とつぶやいた局長は、ナツキを探したが木の枝にはいない。小さな蛇は、木の根元の草の上でぐったりと横たわっていた。
「ナツキちゃん!」局長はあわてて木から降り、小さな蛇のナツキに呼びかける。
ナツキは小さな声で答えた。
「注射……」
「そうよ。インシュリン注射を忘れていたんだわ」
局長はナツキの腰に留めてある小さなポーチの中から、使い捨ての注射器を取り出し、長い舌と口を器用に使ってナツキの体に注射を打った。ナツキは意識を取り戻した。
「良かった」安心した局長はほっと息をもらす。
「わたし、病気のことをすっかり忘れていたわ。エデンでは毎日があっという間だったから。本当に楽しかったわ」
ナツキは微笑むと小さくため息をもらし、言葉を続けた。
「イブはだまされてしまったわ。一番悪いのはあの蛇ね。ううん、蛇を操っていた誰かね。でもイブもすぐにだまされないで、もっと良く考えたら良かったのに。神様が良い物を隠しているはずがないもの。せめてアダムに相談すれば止めてくれたかもしれないのに」
「そうね。イブはあの木の実をいつも眺めていたわ。見ているうちに欲しい気持ちが少しずつ強くなってしまったのね」と局長も静かに言った。
いつの間にか夕方になっていた。エデンにそよ風が吹く時間だ。二人はアダムとイブの家へ向った。二人は木の陰に隠れるように座っていた。ナツキが好きな、いつもの堂々としたアダムではなかった。裸の体を恥じるように体を丸めイチジクの葉で腰を隠していた。
天から声が聞こえてきた。
「アダムよ。どこにいるのか」
アダムが答えた。
「私は裸なので怖くなって身を隠しました」
「あなたが裸であると誰が告げたのか。食べてはいけないと命じた木の実を食べたのか」
「あなたが与えてくださった女が私に木の実を差し出したので食べたのです」
「イブよ。どうしてそんなことをしたのか」
イブは蚊の鳴くような小さな声で答えた。
「蛇です。蛇が悪いのです。あの緑の蛇が私をだましました」
天の声は、謎々のような言葉を告げた。
「私は蛇と女の間に敵意を置く。女の子孫は蛇の頭を砕くだろう。蛇は女の子孫のかかとを砕くであろう」
天からの声は最後にアダムに告げた。
「あなたは顔に汗を流してパンを食べ、ついには地面に帰る。あなたは地から取られたので地に帰る」
局長は遠くからアダムとイブを見ながらつぶやいた。
「もう帰らなくてならないわね」
「うん」ナツキは寂しそうに答えた。二人は川沿いの並木道を無言で進んでいった。
局長が言った。
「私たちには昔の歴史は変えられないのよ。でもね、神様は人間を見捨てたわけではないわ。きっといつか蛇を操ったサタンの頭を砕くときが来るわ。失われた楽園がまた取り戻されるときが必ず来るのよ」
「うん。そうね。神様は嘘をついたりしないわ。お母さんが『聖書ものがたり』を読んでくれたときに言ってたわ。何があっても、神様を信じることが大切なのよって」ナツキは口をぎゅっと結んだ。
局長の赤い靴とナツキの運動靴は、来た時のまま、草むらに転がっていた。二人は大きな自分の靴の上に体を乗せた。いつの間にか目の前に白いふすまがあった。
「じゃあ開くわね」と局長が言った。ナツキは無言のまま、ふすまの取っ手に顔を寄せた。鳥の大きな羽音が耳元で響き、局長とナツキはふすまを開いた。明るい光がまぶしくてナツキは思わず目を閉じた。
目を開けるとナツキは片手に運動靴を持ち、畳の部屋に立っていた。手と足がある。隣には水色のワンピースを着た局長が、赤い靴を手にしながら立っていた。ナツキに向けられた、ほほえんだ顔が優しかった。
緑のインコが止まり木の上から元気な声を出した。
「オカエリナサイ」
ナツキはズックを履いて土間におり、ワカケホンセイインコに声をかけた。
「ただいま。インコさんがあの時、オオワシになって助けてくれたのよね」
ナツキの言葉に答えるように、インコは胸を膨らませると「ヨーコソ」と甲高く叫び、羽を水平に広げて空を飛ぶまねをした。
◆
店のガラス戸を閉めて外にでたナツキは、左隣りにある和菓子屋をのぞいた。ちょうど母親が、お土産の和菓子を買って店から出てくるところだった。
「ナツキ。お待たせ。ずいぶん待った? 何を買おうか迷っちゃったのよ」
「ううん。待ってないよ。近くのお店を見ていたの」
「何か良い物があった?」
「ううん。見てただけ。でも、とっても楽しかったわ。
ナツキは母の荷物を一つ受け取ると、元気良く歩き出した。探偵局の看板が右手に見えた。隣りの古道具屋の奥に、髪の毛の少なくなった中年のおじさんが座っていて、大きなあくびをしていた。すぐ前に黒電話が置いてある。若い女の人の声がした。
「お父さん。今日のお土産はフルーツよ。ほら、見たことない木の実よ」
局長の声だった。おじさんの甲高い「おおっ」という声が聞こえた。
《局長ったら、ちゃんとエデンの木の実を持って帰ったのね》
「ははははは」
ナツキは思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」と母親が尋ねた。
「何でもないわ。思い出し笑いなの」
ナツキは晴れ晴れとした笑顔で母に答えた。